壱岐市長に市役所でお会いしました~日本の離島政策について議論

4月4日午前、壱岐市役所で、白川博一市長(全国離島振興協議会会長)とお会いし、改正離島振興法施行後の離島政策と今後の課題について約2時間議論しました。平成25・26年度にかけて行う「がんばらんば長崎」地域作り支援事業「壱岐島ごっとり市場プロジェクト」についても、山本利文企画振興部長から説明をいただきました。今後2年間で、こだわり交流・こだわりグルメ・おもてなし・誘致戦略の各柱で、壱岐の強みを活かした観光・物産振興をしていただきたいと思いました。市長には、5月22日、長崎で開催の、ながさき地域政策研究所主催の「長崎県離島研究シンポジウム」でもパネルデイスカッション「離島振興法改正後の離島振興の方向性」にも、パネラーとして出席していただく予定です。市長室に掲げてあったアジアの地図(中国大陸を中心にしたもの)を見ると、中国が海洋進出に意欲的になるのは良くわかり、日本がASEAN諸国等と一緒に、国土や国民の生命・財産(加えて資源)を守るためにも、離島の存在を重要視することが必要になる時期はそう遠くないと思いました。(画像は、壱岐・対馬・五島航路のターミナルがある博多埠頭。長崎県の離島振興には、今後人口が増加する福岡からの誘客も重要。)

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財団法人ながさき地域政策研究所が公益財団法人になります~皆さんにさらに役立つシンクタンクへ

4月1日、設立10年半を経過し、長崎県民の皆さんに育てていただいた財団法人ながさき地域政策研究所が公益財団法人ながさき地域政策研究所に変わります。これまで以上に、地域政策・地域経済面等で長崎県民の皆さんに役立つシンクタンクとなるよう、努力を続けていきたいと思います。これまで、当財団は、長崎県地球温暖化防止活動推進センターとしての役割も担ってきましたが、さらに、ながさき離島研究センターを組織内に発足し、日本一離島を多く抱える長崎県が、人口減少・高齢化が最も早く進行している離島にどのような政策を企画・実施すべきかを全国・世界の先進事例も研究しながら研究・提言していきたいと思います。今後とも、ご支援・ご鞭撻を賜りますよう、お願い申し上げます。(画像は、野母崎町から軍艦島・高島を臨む。2012年3月撮影。)

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佐世保市「市長とさせぼのキラッ都を語ろう」でコーデイネータをさせていただきました

3月31日午後、桜舞い散る佐世保市民文化ホールで開催された、佐世保市「Re:スタート」Talk cafe~「市長とさせぼのキラッ都を語ろう」でコーデイネータを務めさせて頂きました。これは、今年4月1日から「ひと・まち育む元気プラン」(佐世保市後期基本計画)がスタートするに際し、計画の概要と3つの戦略プロジェクト~成長戦略・安全安心・地域の絆~の市民への説明と意見交換のために開催されたものです。「市民文化ホール」自体、第一次世界大戦の凱旋記念館として大正12年に開館した建物で、かつて軍需都市でもあった佐世保市にある日本の近代化遺産として保存を図りつつ、市内文化団体・自主サークル育成のため広く活用されている施設です。トークセッションでは、上述の3つの戦略プロジェクトについて、朝長則男市長、石川雄一氏(長崎県立大学経済学部長)、田崎恵美子氏(市民会議副座長)、黒川英明氏(同仕事・ブランドチームリーダー)、栁井駿平氏(長崎国際大学大学院生)と語り合い、会場の皆さんの意見も多く出され、大変盛り上がって私自身も楽しみました。高齢化が進む佐世保市にとっても、「地域の絆」が失われつつある中で、「若い人が参加しやすい環境を作る」必要があるとの意見が多く出され、町内会にも青年部を作るなどが提案されました。佐世保市は、今後地場産業振興・企業誘致・観光のメッカとして、独自の成長戦略を実現して行けるだけの市民意識と行政能力があると感じました。

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長崎の桜も最終局面~清水寺の一本桜を見に行きました

3月30日、最後の桜を惜しむように、夕方八坂神社・清水寺に行きました。清水寺には桜の老木「一本桜」が美しく咲いていました。(画像)長崎山清水寺の起源は元和9年(1623)、京都音羽山清水寺光乗院の僧侶、慶順が創建したとされ、南京(中国)から長崎までを航海した貿易商人が寄進したことでも知られています。また、原爆投下被災者の供養のためもあり、裏の山に向かって数多くの石の不動明王や観音菩薩が祭られているという特徴があります。

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種子島の定住促進は大いに学ぶべき(その2)~種子島UIターンサポートセンター(サポセン)並みの民間組織を長崎県にも

3月25日、種子島南種子町で調査した結果、行政(西之表市・南種子町)にはUIターン希望者の定住促進向け支援策は、空家情報の提供等がありましたが、現在ではサポセンが主体となって定住化支援を行っています。サポセンが設立されたのは平成15年5月ですが、国土庁離島振興課「離島における多自然居住整備方策に関する調査」が実施された際、その一環として行われた「対馬・隠岐・種子島の三島交流事業」で勉強会・ワークショップが開催され、「種子島のマスタープラン作成」に参加した移住者・地元有志達が集まり、サポセンが設立された経緯があります。現在では、①移住者が定着するための情報交換、交流の場を提供する、②人口を増やすことで、地域の活性化に寄与する、を目標とし、A.情報提供(住宅・就職・開業等)、B.企業誘致(IT企業・通販企業コールセンター等)、C.観光促進(観光プラン・ガイド提供等)、D.建設誘致(集合住宅の投資等)、E.広報活動、F.会報の定期発行、G.各月のイベント開催などを行っている、いわば「多目的民間地域振興団体」(私が名づけるなら)です。もちろんこれら全てを民間が独自に完結することはできず、行政と連携して行うことが必要ですが、民間主導で行っている点が優れています。長崎県にも、小値賀町のアイランドツーリズム協会など成功例がありますが、種子島と同様、人口3万人以上クラスの離島で成功事例を作りたいと思います。各分野の方々のお知恵を拝借したいと思いますので、様々なご意見をfbを通じてでもいただければと思います。(画像は、南種子町西野小学校に掲げられた子供たちの「誇り」宇宙センターとともに暮らす象徴的な絵。「創立137周年」には驚かされた。)

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種子島の定住促進は大いに学ぶべき~民間の努力で毎年20~30組の定住者が生まれる

3月25日、鹿児島県種子島で定住促進の現状を調査に行きました。民間の任意団体である「種子島UIターンサポートセンター(サポセンと略)」が定住促進事業を担っており、行政からの補助金は受けていません。サポセンの本部がある南種子島町は、種子島の南端に位置し、サーファーのメッカであるとともに宇宙センターがあることで知られています。サポセンの代表、西豊氏によれば、移住者は30~40歳台と比較的若く、夫婦で来る人もいるが、種子島で移住者同士結婚する人も多く、「巡り合い」事業にもなっていると言います。また、移住の目的としては、サーフィンしたり、ゆったり暮らしたい人が大半ですが、人間関係がうまくいかないことが理由の方もおり、島になじんでもらうための人間教育的な事業でもあると言います。結果として、毎年20~30組、最近では年間100名くらいの移住者を受け入れているそうです。成功の秘訣は、移住者に対して、民間人のネットワークで、島で働く場を常に与え、いずれは農業・民宿・観光・飲食等の仕事で自立することです。そのために、積立貯金を義務付けるケースもあるそうです。西氏(関西出身)・石堂氏(建設業)・小園氏(元町会議員)などの方々にお会いしましたが、完全にボランテイアで活動を続けているのは、全国でも珍しいと思いました。また、西氏は、島外者だからこそ島内のしがらみなしに、移住者面倒を見ることができたのだと感じました。長崎県の離島でも定住促進活動をどう進めるかを真剣に検討する必要があると思いました。(画像は、南種子島町のサポセンで。左から、西氏・石堂氏・菊森)

 

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近代長崎の研究者のさらなる充実が望まれる~歴史文化博物館「近代長崎と梅屋庄吉」を聞いて

3月24日午後、長崎県立図書館で開催された歴史文化博物館の講座「近代長崎と梅屋庄吉」を聞きました。講師は長崎県文化振興課山口保彦氏(元高校教師と自己紹介)で、史料に基づく研究成果を披露してくれました。長崎県では県庁行政文書が重要文化財指定されていませんが、今後研究を進める過程で、不明な部分の多い明治以降の長崎の歴史が明らかとなり、文化財登録も進むと感じました。山口先生は、日見峠の開削事業を巡る国と県との文書のやり取りから、予算以上の工事費がかかったため、民間ではなくて行政が工事を実施したという事実が浮かび上がってくると言われていました。近代的な明治政府が目指す行政の過渡期であったことがわかり、行政学上も興味深いと思います。明治20年代長崎を記録する鈴木天眼の「新々長崎土産」(明治22年)によれば、長崎人の特徴として、「長崎には尚武的気質なし」(「政事上の気力薄くして県治に市政に重要なる地位は大村平戸佐賀熊本等より出たる士族の手に奪われ」)、「支那人を尊重」などを上げていますが、長崎が幕府直轄地であったために、士族がおらず、町人・商人が経済を支えていたという特殊な背景があり、現在も脈々と長崎人のDNAとして流れているように思います。史料を仔細に研究していけば、近代長崎史が浮き彫りになると思いますが、長崎に研究者が絶対的に不足しているように思います。県立図書館整備などと併せ、目標を明確にした「歴史研究のマネジメント」(経営の質)が必要になってきていると感じています。(画像は県立図書館入口付近・日銀の裏にある桜の木)

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長崎の桜の満開宣言~桜を見れば心が晴れるのは今も昔も変わらない日本人の心情

3月23日、長崎の桜の満開宣言が出されました。長崎市内には何カ所か桜の名所がありますが、立山(たてやま)公園の桜は高低差のある山全体に桜の木があり、県内でも最大級です。私が育った奈良県だと、中千本・上千本と高低により開花時期が異なる吉野山に近いと思います。ちなみに、吉野山が桜の名所となったのは、1,300年前、役行者(えんのぎょうじゃ)が金剛山寺を開くとき、蔵王権現を桜の木に刻んだことから、ご神木として保護されてきたためです。子供のころ、毎日三笠山を見て生活していた私は、万葉集にある「春日(かすが)なる、御笠(みかさ)の山に月(つき)も出でぬかも、早紀山(さきやま)に咲ける桜の、花の見ゆべく」(春日の御笠の山に月がでないものかなあ。早紀山に咲いている桜の花をもっときれいに見ることができるのになあ。)という歌を想いだします。長崎でいうと、立山が早紀山で、その背後の金比羅山(こんぴらさん=278㍍)が春日山(かすがやま)に当たります。4月上旬に桜を見ようと、奈良・飛鳥への旅行を計画していましたが、今年は残念ながら桜は見られそうにありません(笑)。(画像は長崎市の桜の名所立山から金比羅山を望む)

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穂坂邦夫氏から送っていただいた一冊の本「Xノートを追え!」~推理小説か仮想空間か?

1月に穂坂邦夫氏(埼玉県職員から志木市議会議長・埼玉県議会議長を経て2001年7月志木市長に就任。2005年7月からNPO法人地方自立政策研究所理事長。)から、1冊の本(朝日出版社刊)が送られてきました。題名は「Xノートを追え!」で、推理小説のような作りになっており、2月の移動時間を利用して読み進みました。穂坂氏とは、数年前、長崎で地方自治のシンポジウムのパネリストとしてご一緒させていただいたことがあります。メインテーマは「日本(国・地方)の財政問題」で、読まれた方も多いのではないかと思います。内容が現状からかけ離れていて仮想空間を見ているようで、私にはこの本の評価を表明することはできませんが、エコノミスト・シンクタンカーとして、成熟社会を迎えた現代日本の底流に流れる財政問題を今後どうするかという議論に一つの投げかけをしていると思います。各市町が財政を常に健全な状態に維持しないと厳しい現実が待っていることは言うまでもありません。私が長崎県の対馬市・大村市・佐々町という、当時財政的に厳しい現実に直面していた(あるいは放置すれば近い将来そのような現実に直面する恐れがあった)状況から改善するお手伝いを、委員長としてさせていただいた経験を踏まえると、行政(首長と職員)と住民が発想を変えて着実にやるべきことを実行すれば財政的に「明るい未来」に転じることは十分にできると思います。「気づき」と「決断・実行」が地域経営には欠かせません。

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出島と桜~シーボルトが桜をヨーロッパに紹介した

3月23日朝、出島の近くを通りがかったら、桜が満開でした(画像。背景が川を挟んで出島の復原屋敷)。桜の木と屋敷の白壁のコントラストが美しい。出島敷地内にある桜は八重桜の一種で、「シーボルトの桜」と言われ、1866年ヨーロッパに初めて紹介され、欧州人が魅了されました。この桜は、芍薬(しゃくやく)のような香りがします。日本史の教科書の挿絵にある「出島」は島でしたが、埋め立てにより、現在は島ではないので、当時の雰囲気を復元するためにも、江戸町から出島橋を架橋する計画が進行中です。それでも島には戻せませんが(笑)。

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