大学入試に思う

東京で霙の降る中で、大学入試共通一次試験が行われました。18歳の時に、東大の一次試験を受けた時のことを思い出していました。当時の東大の一次試験は、現在の共通一次試験に似たところがあって、基本的な理解を確認する良問が出されていましたが、国語・数学・外国語以外に、特徴は、社会も理科も2科目ずつだったということでした。私は、社会はできるだけ勉強しなくてもいい地理と日本史、理科は生物と地学を選んでいました。地理は全く勉強しなくても小学生の時から、地図を見るのが大好きだったので、世界地図の地形や地名はほとんど覚えていました。地学は、地球・宇宙と天候が大好きな子供でしたから、特に勉強しませんでした。今も、国立大学は受験科目数が多いことが、受験生に嫌われているという趣旨の記事がサイトに出ていたので、「変わっていないのだなあ」と思いました。もし大学受験が競争試験であれば、科目数が多い方が、試験当日の出来不出来が影響せず、安定するので、望ましいのですが、「反対の考え方があるのだなあ」と思いました。大学受験については、様々な改革が行われてきていますが、基本は変わっていないということだと感じました。

シンクタンクの仕事をしていると、様々な政策を策定したり、提案することになるので、「理系的文系」「文系的理系」が望ましいと思います。それは、政策には根拠が求められるからで、文系であっても「科学的思考」が不可欠です。社会科学全般に統計解析手法や、データサイエンスが不可欠です。また、数学や物理等、理系的思考法ができて、知識がある方が、機械・半導体やAI/IoT/ロボット等を理解するのが楽になります。尤も、これらは、後天的に勉強すれば幾らでも補えますが、「思考を拒否しない」ことが重要です。シンクタンカーに求められる最大の素質は何かと聞かれたら、「人間に対する熱い心」と「知的好奇心」と「論理的思考力」だと答えざるを得ないと思います。実は、この素質が、大学までの学習にすべて含まれているのです。これは、全人格的な能力と言えるのではないでしょうか。ソニーの盛田さんが、「学歴は要らないが、学力は必要だ」と言われましたが、同じだと思います。

私は、「学歴は重要だ」と思います。それは、社会への「切符」という意味においてです。学歴がなくても、社会で活躍し、認められ、成功する人間は、洋の東西を問わず、古今多くいました。学歴がないことをバネに努力する人間は多くいます。ただ、多くの方にとって、学歴は、チャンスを得るための一つの手段となることも事実です。シンクながさきが長崎県から受託して行った事業の一つとして、千葉工業大学の古田先生(当時、内閣府のロボット担当、大学の常務理事)が、長崎で講演された際に、高校生を前に、こんなことを言われました。古田先生は、子供の時に、身体が不自由な時期があり、「自分の体の代わりとなるロボットがあれば、やりたいことをやれるのに」と考えて、ロボットの開発を研究する道に入ったということです。しかし、「そのためには、大学入学が必要で、「チャンスをつかむために、切符としての学歴が必要だった。」と言われました。そして、「自分が本当にやりたいことをやりぬくためにも、学歴という切符を手にしてください。しかし、本当にやりたいことはやりぬいてください。」その時に、来られていた、教育関係者はどう思われたでしょうか?

私が特任教授を務め、今は大学院の新技術創成研究所の客員教授を務めさせていただいている理科系の大学があります。学生の中には、国立大学のように多くの科目をこなせるタイプではありませんが、「一芸に秀でる」と言いますか、ロボットとか、AIとか、特定のことに強い関心を持つ、尖った学生が何人かいました。そのような学生の中から、将来の日本の科学をリードする人間が出てくる可能性があります。すべては大学の教育方針ですが、このような学生の個性を活かせる日本であって欲しいと思います。

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