エコノミストを始めた頃

私は27歳でシカゴ大学留学から戻り、三井銀行(現三井住友銀行)調査部に配属となりました。最初の論考は調査月報に掲載した「米国の高金利について」でした。当時アメリカはレーガン政権下で財政赤字・経常赤字で実質金利が高止まり、ドル高となり、輸出が伸びず、更なる経常赤字の要因となり、困っていました。また、金融政策のターゲットを金利からマネーサプライに変更したことも一因となっていました。これを緩和するためにも、日本は内需を喚起し実質金利を上げて円高を誘導することが必要であると考え、設備投資減税等による内需喚起・景気浮揚を骨子とするべきであるとの論考を公表したのです。日経新聞に紹介された日の朝一番、当時の中曽根内閣の首相官邸から銀行に「詳しい話を聞きたい」との電話があり、秘書官に説明に行ったことを覚えています。当時は貿易不均衡をアメリカから指摘され、日本政府としても輸入を喚起し、貿易摩擦を回避したかったようです。その後すぐに内閣調査室と経済産業省の白書を作成している部署から連絡をいただき、日本の対米政策と貿易摩擦問題を議論する研究会のメンバーになり、この問題に取り組むようになりました。当時内閣調査室としても、中曽根首相がアメリカ通だったこともあり、北朝鮮問題以外にアメリカ政策を研究したかったようです。当時、三井銀行には後藤新一調査部長(常務取締役、九州大学経済博士)がおられ、銀行という民間企業でありながら、民間エコノミストとして経済・金融政策や金融制度を論じる自由な風潮がありました。三井グループらしい人材育成方法だったのかも知れません。当時調査部は単に経済・企業調査をする部署ではなく、企画部署と並んで、銀行の新しい経営手法を試行したり、都市銀行から国等への提言をまとめたり、三井グループ内企業との調整をしたりする刺激的な部署で、私も銀行の社長・会長の支店長会原稿素案を何回も書かせていただきました。調査についても、後藤調査部長の方針で、戦前の満州鉄道調査部を参考にして、公開された事実を客観的に分析し、政策提言するという科学的な調査手法を取っており、緻密・的確な調査で定評のある三菱銀行調査部と並んで銀行界をリードしていたと思います。満鉄調査部の優秀さは、日本国内のみならず海外でも評価されており、私が留学していたシカゴ大学の極東図書館(Far Eastern Library)にも調査月報が全巻収集されており、ハーバード大学とともに日本の占領政策が研究されていたことからもわかります。銀行とは、単なる金貸しではなく、国の経済の一翼を担い、産業界をリードしなければならないという気概が若い金融マンの間には流れていたと思います。

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