シュガーロード連絡協議会出席

6月16日長崎市のシュガーロード連絡協議会に出席させていただきました。この事業は長崎市・諫早市・大村市・平戸市・嬉野市・武雄市・小城市・佐賀市・飯塚市・北九州市および民間団体(菓子業者組合など)49団体がメンバーとなり、シュガーロード沿線都市が相互に連携を図るものです。22年度は10月21日にシュガーロードシンポジウムを開催して、私もパネルデイスカッションのコーデイネータを務めさせていただいたり、11月12~14日にはブルートレインを利用してJR九州シュガーロードトレインツアーを企画開催するなど、活発な事業を展開してきました。23年度以降について、私の方から、①全国でも「砂糖の街道」はここだけなので、菓子製造だけでなく全国向け販売戦略を実施すること(全国的に消費者は「箱菓子」には飽きており、地元にしかないような珍しいお菓子を求めているので、テレビ局系列のショップや数量限定の商品を扱う通販会社などと提携して販売促進する)、②福岡における「キトラス」(「食」を中心にして物産と観光の融合を実現した長崎市・佐世保市・雲仙市三市共同によるアンテナショップ)をさらに活用することなどを提案しました。今後も斬新なアイデアで地域連携によるシュガーロードを全国版にするために提案していきたいと思います。

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長崎の鯨食文化を守る会役員会

6月14日夜、「長崎の鯨食文化を守る会」役員会が思案橋「いろは本店」で開催され、新しい会長に川島明子氏(川島学園副理事長)が選出されました。併せて、菊森淳文(現事務局長)が理事に、原田幸二氏(財団法人ながさき地域政策研究所専任研究員)が新しい事務局長に選出されました。捕鯨については世界的にはグリーンピースの活動が報道されていますが、長崎県は全国の鯨肉の約1割を消費する県であるなど、江戸時代から近海捕鯨の中心地の一つであった歴史を反映して、鯨食文化が定着しています。今後も、地域活性化や次世代への文化継承のために、鯨食文化の研究と新商品・調理法開発など鯨食普及を続けるべきだと思います。平成23年度イベント企画についても、11月のながさき今昔くじら料理フェアの時期に合わせ、講演会・食事会等を実施することになりました。また、可能ならば、五島・壱岐・平戸・生月などの地域と連携した鯨イベントを考えていきたいと思います。

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建築・建設業界の思い出

理容・美容業界と並んで中小企業庁から中小企業白書の委託研究で取り上げたのが建築・建設業界でした。建設業界は請負契約が主流で、欧米のようにコンストラクション・マネジメント(CM)が定着しないため、建設コストを下げられない背景には、リスク負担をゼネコン等元請企業が行っているという事情がありました。業界の経営面の課題として、特に中小建設業の場合、「建設する」ことに主眼があるため、顧客のニーズ把握等は二の次になっている面があり、そのことが建築・建設業界の停滞を招いていると考えました。中には「経営戦略」を明確に示し、主たる顧客層に合致した商品・サービスを提供している建設会社や、地域における市場成長の限界を察知して多角化を早くから計画的に進めて来ている建設会社もあり、そのような優れた企業を中小企業白書に掲載する事例として取り上げたのです(たとえば新潟県の㈱石橋組など)。併せて、建築・建設業界の経営の本が殆どなかったので、建築資料研究社(日建学院の母体企業)から書籍出版のお話をいただき、「革新の経営力、工務店はサービス業だー成長する建設会社の秘訣を探る」(2002年3月)を出版させていただきました。また、建設コストを下げるための仕掛けとして、インターネットを活用した建住宅・店舗等の築設計コンペと資材流通の合理化に取り組んでいる「建築Web」「アルスノヴァ」の森山社長と会い、業界の変革にどう取り組むべきかを考えてビジネス化してきました。建築・建設業界は地域にとってはインフラを作り、人を雇用するという重要な使命を負っているので、いかに経営の安定を図っていくかがどの時代にも問われています。最近では公共工事が財政難から激減していますが、これまで将来に向けた経営努力を払ってきた建設会社は今も成長を続けています。

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新経済社会システム研究会の思い出

経済産業省大臣官房が2002年6月に発足した「新たな経済社会システムの構想と戦略に関する研究会」(「新経済社会システム研究会」と略)で、私は座長に選出されました。この研究会は、①今日の閉塞状況の根本原因を明らかにし新世紀における新しい経済社会システムビジョンを提示すること、②閉塞状況から抜け出せない要因を明らかにし改革実現のための条件を提示すること、が目的でした。(財)産業研究所とジェミニ・コンサルテイング・ジャパンが作業を支援してくださいました。新世紀の経済社会システムビジョンとしては、A.高い水準の経済成長を前提としない低成長時代に適合したものであること、B.環境やエネルギー制約に適合したものであること、C.社会の規律を高めるものであること、D.技術の進歩に適合し、産業構造の移り変わりに円滑に対応するものであること、E.公平と効率が同じく追及されその均衡が図られるものであること、F.多様性からの利益を享受できるものであることを要件とし、所得再配分政策、規制政策・対外経済政策、マクロ経済政策に分けて政策提言しました。また、改革の実現に向けて、①国民における危機意識の浸透、②改革を不可避とする外圧の存在が重要であるとの結論に達しました。9年前のこの時に議論されてまとめられた方向性で日本社会は進んでいますが、具体的・効果的な政策を出していくことが求められています。私はこの時、国政レベルを動かすことの難しさと地方自治から変えていくことの重要性と可能性を痛感し、2002年10月から長崎県庁のお誘いがあり、(財)ながさき地域政策研究所の調査研究部長として長崎県に来ることになったのです。

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インターネットビジネスの思い出

今の私からは想像もつかないことかも知れませんが、1999年(私が44歳の時)からインターネットビジネスの研究を精力的に始めて、最初の論文「インターネットを利用した金融・証券取引と経営課題」(さくら総合研究所調査報告」2000年1月)を発表しました。当時、銀行経営のコストが問題になっていて、顧客の分類と低コストツールの提供がテーマの一つになっていました。この論文が旧さくら銀行(現三井住友銀行)関連のジャパンネットバンクの設置・ビジネス展開にも影響を与えたと思います。私の得意分野である経済・経営・金融法と全く別の業務として、1996~99年に資金証券企画部市場リスク管理室企画グループ長を務めているとき、銀行の「リスク管理システム」開発のマネジャーを兼務したことがあります。これは銀行が保有する膨大な貸金・証券・為替ポジション等の価格・信用・金利等金融リスク「Value-at-Risk」などを計測するためのシステムで、私が27歳の時に提案したALM(資産負債管理)システムに次ぐ重要性の高い経営システムでした。開発チームは銀行員と富士通・日本ユニシス等25名くらいの20歳台の若者がほとんどで、彼らからインターネットの有用性を教えられました。ニューヨーク・ロンドンに出張する際にも海外のインターネットビジネスを調査しておりました。この論文を公表してから、ネット上の「通貨」とは何かを中心課題として、京都大学大学院や信州大学で非常勤講師を務めるようになったのです。一方、弁護士・司法書士・公認会計士・税理士等から成る集団がやってきて、インターネットを利用した日本で初めてのビジネスモデルとして、ネット上のコンサルテイングビジネスを始めたいのでアドバイザーになって欲しいとおっしゃったので、お受けしました。千代田区麹町のダイヤモンドホテルで缶詰めになり、皆で事業計画書を作成し、「コンサルテイングファーム」というネット上の各種コンサルテイングを行う企業を設立しました。当時は株式公開が日米ともに増えてきていましたから、当然株式公開を目指していました。その時の考え方などをまとめたのが、「学習する会社のナレッジ・コラボレーション」(かんき出版、2001年5月)で、親しい学者である慶応大学の竹中平蔵教授(その後第一次小泉内閣で経済財政政策担当大臣となられた)も執筆してくださいました。コンサルテイングファームでやり取りされるネット上の相談と回答は集積すると、ナレッジ(知識・知恵)となり、未知の課題への手引書にもなります。株式公開のチャンスこそ得られませんでしたが、好調な業績で、今も発展し続けています。同様に、住宅・店舗等の建築設計コンペをネット上で行い、必要な建築資材もネット上で安価に調達する「建築ウエブ」森山社長にも経営アドバイスを行ってきました。この企業も順調に業績を伸ばし、構造計算書偽造問題や東日本大震災後の資材調達などピンチをチャンスに変えて得意分野で成長を続けています。インターネットというツールがこんなにもさまざまな分野で、ビジネスに活用されるとは、発明した人は考えなかったのではないでしょうか?

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金融先物取引法制定の思い出

およそ金融制度に新しいツールを導入することには大きな困難を伴います。特に新法制定を必要とする制度導入は中央官庁にとっても一大事業です。私が31歳の時、三井銀行が銀行協会の会長行となり、私は資金証券企画部にいて、金融先物・オプションの日本への導入を検討していたことから、当時大蔵省担当(MOF担)であった企画室と一緒に金融先物取引法制定担当となり、大蔵省銀行課に足繁く通うことになりました。金融先物・オプション自体は25歳の頃から本場のシカゴで研究していましたが、法律を制定するには、別の能力が問われます。銀行業界の会長行と言っても、法制定は国会と大蔵省の専権事項ですから、一民間人である私としては、あくまでも内容面のサポートとなります。特に入口の「なぜ金融先物取引が社会的に必要なのか」を内閣法制局に理解してもらわなければ先に進みません。幾ら欧米に類似市場があると言っても、日本国内では通用しません。金融先物取引は「ギャンブル」と見られており、法制定無しには刑法の賭博罪に該当します。したがって、金融先物取引法制定によって、違法性を阻却することが必要だったのです。また、「業界のエゴ」と受け取られたら、国会を通すことも難しくなる状況でした。そこで、外国法を専門とする弁護士二人と当時学習院大学におられた若き商法学の権威神田秀樹教授(東京大学法学部の一年先輩)にお願いして、法制度にどのように乗せるかを考えていただきました。また、アメリカ、イギリスで法制の実地調査を指導していただきました。その後すぐに東京大学教授になられましたが、神田先生がいなかったら金融先物取引法は制定されてなかったと言っても過言ではありません。「頭のいい人間とはこのような人のことを言うのか」と思いました。ご性格も穏やかで、今も尊敬申し上げております。もちろん、日本の先物の世界には「商品取引所法」があったのですが、名称からわかる通り、「取引所」を規制する法律で、「取引法」のように行為規制法とは別物でした。2008年に起きたリーマンショックで、「デリバテイブ」(派生商品)が批判されましたが、すべての金融ツールは悪用すれば大きな事故を起こすことは当時から想定されていました。もともと穀物相場(現物)のリスクヘッジの必要性から生まれた先物・オプションですが、有用なツールは常に悪用されるというリスクと一体です。金融デリバテイブは特に「数値」だけを対象とするもので、ヘッジファンド等に悪用されるとまさに賭博行為と変わらなくなってしまう危険性を認識しておくべきでしょう。

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エコノミストを始めた頃

私は27歳でシカゴ大学留学から戻り、三井銀行(現三井住友銀行)調査部に配属となりました。最初の論考は調査月報に掲載した「米国の高金利について」でした。当時アメリカはレーガン政権下で財政赤字・経常赤字で実質金利が高止まり、ドル高となり、輸出が伸びず、更なる経常赤字の要因となり、困っていました。また、金融政策のターゲットを金利からマネーサプライに変更したことも一因となっていました。これを緩和するためにも、日本は内需を喚起し実質金利を上げて円高を誘導することが必要であると考え、設備投資減税等による内需喚起・景気浮揚を骨子とするべきであるとの論考を公表したのです。日経新聞に紹介された日の朝一番、当時の中曽根内閣の首相官邸から銀行に「詳しい話を聞きたい」との電話があり、秘書官に説明に行ったことを覚えています。当時は貿易不均衡をアメリカから指摘され、日本政府としても輸入を喚起し、貿易摩擦を回避したかったようです。その後すぐに内閣調査室と経済産業省の白書を作成している部署から連絡をいただき、日本の対米政策と貿易摩擦問題を議論する研究会のメンバーになり、この問題に取り組むようになりました。当時内閣調査室としても、中曽根首相がアメリカ通だったこともあり、北朝鮮問題以外にアメリカ政策を研究したかったようです。当時、三井銀行には後藤新一調査部長(常務取締役、九州大学経済博士)がおられ、銀行という民間企業でありながら、民間エコノミストとして経済・金融政策や金融制度を論じる自由な風潮がありました。三井グループらしい人材育成方法だったのかも知れません。当時調査部は単に経済・企業調査をする部署ではなく、企画部署と並んで、銀行の新しい経営手法を試行したり、都市銀行から国等への提言をまとめたり、三井グループ内企業との調整をしたりする刺激的な部署で、私も銀行の社長・会長の支店長会原稿素案を何回も書かせていただきました。調査についても、後藤調査部長の方針で、戦前の満州鉄道調査部を参考にして、公開された事実を客観的に分析し、政策提言するという科学的な調査手法を取っており、緻密・的確な調査で定評のある三菱銀行調査部と並んで銀行界をリードしていたと思います。満鉄調査部の優秀さは、日本国内のみならず海外でも評価されており、私が留学していたシカゴ大学の極東図書館(Far Eastern Library)にも調査月報が全巻収集されており、ハーバード大学とともに日本の占領政策が研究されていたことからもわかります。銀行とは、単なる金貸しではなく、国の経済の一翼を担い、産業界をリードしなければならないという気概が若い金融マンの間には流れていたと思います。

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理容・美容業界の思い出

中小企業診断士資格を取得した後、しばらくして中小企業庁から中小企業白書の事例提供委託を受け、当時経営戦略研究分野で遅れていた「サービス業」を強化するため、建設業、理容・美容業、飲食業の先進事例を全国から集めました。このうち、理容・美容業は組合組織に加盟した店と非加盟店とがあり、業界として、事業所数・組合員数とも減少傾向にあり、一方で「QBハウス」(1,000円カット専門店)や「シャンプー」(田谷の新業態)のようなデイスカウント店が勢力を拡大しつつあり、どのように生き残るかが真剣に議論されていました。そのような中で、理美容教育出版の「サロン・オーナー」等への連載執筆を通じて業界マスコミに取り上げられてから、気が付いたら理容・美容業界の経営面のオピニオン・リーダーとして、テレビ出演や一般紙等にも取り上げられていました。1999年・2000年と続いて「理容・美容サロンが変わる」「21世紀の理容・美容サロン経営」という本を日刊工業新聞社から出版させていただきました。2001年から全国理容生活衛生同業者組合連合会(略称:全理連)が全国理容総合研究所を設置した際、研究主幹として迎えられ、主として理容業界の経営研究や提言に取り組むようになりました。当初から大森利夫所長(全理連副理事長)、大野悦治運営委員(全理連中央講師会幹事長、明治時代創業の日本橋の理容大野社長)と一緒に研究事業を進めてきました。理容総研は①ソリューション機能、②マーケテイング機能、③コンサルテイング機能の三大機能を有する組織で、当時としては画期的な存在でした。どのような業界も、内部から自発的に改革を進めるのは難しいものです。私の全国講演行脚の旅やサロン経営セミナーも多少は役立ったのではないでしょうか。その後、全国の理容・美容専門学校を会員とする(社)日本理容美容教育センターの理事に就任させていただき、厳しくなる専門学校の経営についても研究・提言させていただきました。マクロとして縮小傾向にある業界であっても、伸びる店舗や学校は必ず存在するし、全ては経営にかかっていると思います。ましてや、人間に係わるビジネスはサービス内容を変えればどんな時代環境にあっても成長産業になることを今も確信しています。医療・福祉事業も同様な観点から見ることができ、その後の私の病院・福祉施設や地方自治体・第三セクターへの経営アドバイスへとつながっていきます。

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投資運用の世界

私は25歳の時米国シカゴ大学経営大学院留学を通じて、アメリカの年金運用等投資のプロの世界に興味を持ち、いずれ日本も年金運用ノウハウが必要となる時代が来ると考えていました。私がその時大きな影響を受けたのは、統計学を用いた証券アナリスト資格を取得するために必要な「現代投資理論」だけではなく、ウオーレン・バフェット氏のような企業価値を算定して割安な証券に投資してパフォーマンスを上げる具体的な投資家の世界でした。その頃、シカゴ商業取引所(CME)には弁護士であり、俳優でもあった立志伝中の人物レオ・メラメド会長がおり、「金融先物」で世界をリードしており、投資や金融を学ぶ格好の材料がゴロゴロしていました。ただし、投資運用のプロとなるには、冷徹なまでの目と行動が必要となるため、これを職業とするには困難が伴い、自らリスクを取ることのできるごく少数のプロしか成功していないという現実がありました。しかし、日本にも年金運用が必要となる時代が来ることは予想が付いたので、三井銀行(現三井住友銀行)で先駆けて、当時アメリカで年金運用第三位であったアライアンスキャピタル社と業務提携を結ぶ交渉を行いました。当時の会長との交渉をニューヨークで行い、初めは「日本の若造」が何をしに来たと言わんばかりの態度で臨まれましたが、話している内に打ち解けて、成功裡に終わりました。CMEのレオ・メラメド氏とは同氏が個人で所有していた先物・オプション会社の買収を弁護士を伴って交渉し、無事平和裏に買収することができました。日本の年金を始めとする投資運用の世界は30年前のあの頃と変わっていないと感じます。それは、日本の場合自らリスクを取って運用するプロが少なく、機関投資家等サラリーマンファンドマネジャーとならざるを得ないという側面があるのではないかと思います。ウオーレン・バフェット氏は大都会を避けてネブラスカ州に住み「オマハの賢人」とも呼ばれ、バークシャー・ハザウエイ社という投資会社を運営していますが、1965年から2010年までの平均投資収益が年率20.2%という好パフォーマンスを残しています。毎年出される「To The Shareholders of Berkshire Hathaway Inc.」は、今も投資運用の世界のテキストであると思います。片田舎の町で、夫婦で静かな極めて質素な生活をしながら、投資先企業を絞り込み、9兆円の世界有数のファンドを運用するという同氏の生き方には魅かれるものがあります。

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浮立による街作り

6月2日東長崎で「ひがなが活性化協議会」が開催され、私も「地域資源を活かした地域作り」と題して、特に伝統芸能の活用と浮立について短時間の講演をさせていただきました。浮立(ふりゅうと読む)とは、佐賀県を中心に、福岡県、長崎県に分布し、田楽と念仏踊の要素が多分に認められるものです。東長崎には間の瀬狂言(県指定無形民俗文化財)、矢上平野浮立、蠣道浮立など、長い歴史を有する浮立が今も続けられています。同協議会では、事業の一つとしてこれらの伝統芸能を活用した地域活性化を図ろうとしています。特に間の瀬狂言は、根治平と与五郎の掛け合いが面白く、赤い衣装を着た子供たちが演じる猿にお酒を飲ませて拍子を取らせるという滑稽で当時としては斬新なストーリーになっています。この狂言はもともと京都から来たと思われ、関西弁が混じっていますが、珍しい伝統芸能だと思います。私は、三重県伊賀市島ヶ原村(藤原密教の寺で、奈良の東大寺二月堂・三月堂の原型となった正月堂で生まれた)に生まれ、奈良市で育ち、子供の時から慣れ親しんできたので、神楽、雅楽、能(金春流)・狂言、猿楽には大いに関心がありますが、伝統芸能でコミュニテイの一体感を醸成し、維持・継承にかかる費用の一部を自主的に作るためにも、観光振興に役立てることが必要になると考えます。

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