長崎港を語る80分

早朝のJALで上京し、13時半からのウオーターフロント協会定時総会で、「長崎の未来を拓くみなとオアシス~長崎港の過去・現在・未来」と題してお話させていただきました。「みなとオアシスNAGASAKI」の紹介なら、15分程度で終わるだろうから、あとは質疑応答でいいかなと考えていたのですが、実際は、話だけで80分間、質疑応答で15分間かかり、大幅に時間を超過してしまったのです。終わったら、大きな拍手、そして名刺交換。こんな地味な長崎港の「みなとオアシス」の話が、なぜ全国の皆さんの共感を呼んだのでしょうか?大きな要素の一つは、長崎港自体が持つ壮大なストーリーの魅力だと思います。長崎港の歴史の特異性、すなわち、平戸から1571年の長崎への貿易港の移転(開港)、ポルトガル人からオランダ人への貿易相手の変化、イエズス会による岬の教会と、長崎奉行所設置と1634年の出島建設開始。長崎港と長崎6町の発展、そして幕末の海軍伝習所・医学伝習所等による西洋文明の流入と日本人による応用、三菱・岩崎3人の活躍とトマス・グラバー。どれをとっても、長崎の発展は、「長崎港」からでした。さらに、平和時の長崎上海航路による中国との交流、その後の軍需産業の発展と、原爆投下。長崎港の歴史ほど、明るさと暗さを兼ね備えた展開を見せた場所は他にないと思います。そして、長崎の発展を支えたもう一つの要因は、港湾土木技術で、1634年の出島建設から、1953年までの320年間に埋め立てられた長崎港内の土地面積は88万㎡で、この分だけ長崎港が狭くなっていったのです。これが現在の国際観光船をはじめとする往来する船の増加にとって制約になりかねないようなってきています。長崎の二つの世界遺産などの観光振興と、松枝ふ頭の2バース化が早期に望まれる所以です。長崎の街は長崎港と一体化した「ストーリー」を語ることで、その魅力が伝わるのではないかと感じました。この歴史性を基礎として、外国人富裕層向ガイドツアー・料亭ツアー、交流拠点施設・文化芸術ホール・外資系ホテル・鉄道などのインフラ整備へと話を進めました。併せて、長崎県の人口減少・高齢化の話をしましたが、全国の地方が同じ悩みを抱える中で、長崎港の「みなとオアシス」が「明るい展望」として、全国からの出席者の方々には理解していただけたと思います。

ウオーターフロント協会菊森講師2019.6.13

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