遣欧少年使節団関係の貴重な本~当時の最先端の知性だった西洋を見た少年たち

8月19日、長崎県立図書館で、まず私の目に止まったのが、デ・サンデ著「天正遣欧使節記」(泉井久之助・長沢信寿・三谷昇二・角南一郎共訳、雄松堂出版、初版昭和44年9月30日)です。原書は、1590年にシナ国マカオのイエズス会で刊行された、「DE MISSIONE LEGATORVM IAPONENSIVM」で、レオ、ミゲル、リノ、マンショの34の対話集です。これは、天正遣欧少年使節団がローマ法王に謁見して日本に戻るまでに交わした対話の記録で、日本側の資料が殆ど存在しない使節団の事実を記録した貴重な資料です。対話11の「ヨーロッパの貴紳の行う快適かつ高貴な修練、およびその子弟の高尚な貴族的教育について」(172ページ)では、体育・唱歌・楽器演奏・舞踊等の技芸の重要性が書かれていて興味深いです。音楽については、ヨーロッパでは日本と異なり、和音・諧調があり、また、単調な歌い方ではなく小声(うら声=falsavocala)があると書かれています。体育についても、「球戯によって気分を一新しながら気品を失わずに時を有意義に過ごすばかりでなく、健康の維持も図っている。美味の数々の食べ物から常に起こるところの不快な気分を、身体の練磨と汗とによって一掃し、その身体を辛労に対して鍛えつつ、常に活発で敏捷であるように努めているのだ。」(190ページ)などは、現代の健康法にも通じ、とても420年も前に書かれたものとは思えません。当時の日本にとって、ヨーロッパは大変な先進国で、キリシタン大名は、西洋の進んだ技術・医学・帝王学・文化に接する機会があった、いわば最先端のポジションにあったと言えます。したがって、これらが日本に入ってきたときの影響を考えると、危険だったし、江戸時代に入って鎖国せざるを得ないと判断したのではないかと思います。現代の留学とは比べ物にならないくらい、少年たちにとっては命を賭けるべきチャンスだったことでしょう。私は、キリシタン大名大村純忠の居城のあった大村市に「天正少年夢ミュージアム」(仮称)を建設してもいいのではないかと思います。

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